Ajinomoto’s blog

トーチカの深イニ見ルです。

『フィラメント』に込めたこと。

25年間生きてきて、これまで自分の命に危険を感じたことなんて一度たりともない。

僕が高校時代まで過ごした山梨県では、大きい地震もなかったし、台風も富士山によってよけてくれていたので被害はちょっと強い雨くらいの記憶。

横浜に出てきてからの7年間も、何事もなく音楽やら映像を作ることができていた。

大きい病気もしていない。

 

自分の世界はとても優しかった。

けど少し世界線をずらして覗いてみると、東日本の震災で多くの命が失われていたし、毎日のように残酷な事故、事件のニュースが平和な世界の色を変えていく。

あまりにも壮大かつ非現実的なことだから、自分には関係ないとまで思っていた。

そこまで勘違いできたのは、周りの家族や友人でさえも、僕と同じように優しい世界で生きていそうに見えていたからだと思う。

 

数年前に同級生が自殺した。

2年前に母がくも膜下出血で倒れた。

姉の旦那も脳梗塞を一度起こした。

一年前には祖母が亡くなった。

つい最近、小学生から飼っていた実家の犬が亡くなった。

 

皆自分と同じ世界を生きていたはずなのに。

知らない世界に足を踏み入れた気分だった。

 

つい最近まで、高齢者の運転によって多数の命が失われ、

今は新型コロナウイルスによって事故でも災害でもなく突発的に人が死んでしまう世界になっていた。

 

今更気付いたわけではない。初めからわかっていた。

いや、わかっていたつもりでいた。

 

電球が切れる原因は、ガラスの中にあるフィラメントが燃え尽きてしまうから。

前兆もなく、燃え尽きる。

 

人の命も電球となんら変わらないもの。

唯一違うところは電球のように人の命はつけかえることができない。

 

今自分の周りにいる大切な人達の球切れは、

明日かもしれない。明後日かもしれない。

50年後かもしれない。

 

明日とわかったとしたら。

 

明日が『最後の日』だとしたら。

 

大切な人に何を伝えるのだろう。精一杯の愛を伝えるしかない。

精一杯の感謝を、伝えると思う。

 

祖母にこれができていただろうか、母や姉の旦那がもし亡くなっていたら、間違いなくできていなかったと思う。

 

死ぬと分からなきゃ伝えれないなんて、せっかく言葉を持って生まれたのにおかしいじゃないか。

 

今伝えればいいだけ。

毎日感謝を伝えればいいだけ。

 

毎日を『最後の日』だと思って、過ごせばいいだけ。

 

 

難しいんだよな。

 

簡単そうに見えて、難しんだよな。

 

きっかけがあればいい。

 

そのきっかけが死なのではなく、この歌であってほしい。

新型コロナウイルスが流行っている今だからこそたくさんの人に聴いてほしいけど、

『フィラメント』を有名でもない僕が発信したところで聴いてくれるのは数人かもしれない。

けどその数人のきっかけになれて、その分後悔がこの世から消えるならそれでいい。

 

 

みんなの大切な人との『最後の日』が終わることのないように。

 

 

 

 

 

歌詞なんてどうでもよくない?

防衛本能を見つけ出してからやっと、使い方がわからなくなってきたここ最近。

純粋で透明な気持ちで見渡せばどう考えても美しい景色や人々を、錆び付いて濁ったフィルターを通しちゃうもんだから自分を上手く肯定することができるようになってしまった。

 

大した説得力でもないからすぐ剥がれ落ちて、汚い自分が露わになって周りにすぐばれる。

 

これは普段の生活の中でよくあることで。

仕事中も、友達との飲み会も、遊びも。

 

根拠のない理想的な世界を掲げて、あたかも自分はこういう考えがあるすごい人間なんだぜみたいな顔をしときながら何もしていない人間だったり、周りの人が持ってる武器を見て指をくわえているうちに、まるで自分も同じ武器を持っていると勘違いして、偽アルテマウェポンを振りかざす人間だったりが溢れる世の中なんだからしょうがない。

 

濁ったフィルターを通すと、上記のような意見になる。これは普段の僕。

 

その目のまま見つめると、

未来に希望を持つ活気のある若者と、自分の環境を客観的に捉えて行動しようとする勇気のある若者というなんとも理想的な世界。

 

難しいね。間違いなく後者の捉え方の方がうまくいくし、正しい。

 

でもね、これだけは違うと言い切りたい。

 

音楽を作り始めて意外にも6.7年は経ってしまっているらしい。

 

歌詞なんてどうでもいいという意見。

周りの楽器隊がかっこよければいいという意見。

 

重音楽でも聴いているつもりなのか。オペラでも同じことが言えるのだろうか。

インストならその通りだが、聞いているのは普通のロック。ボーカルの人がいるロック。軽音楽。

 

作詞家が、人生の中で受けた影響。

その影響の末絞り出した一つ一つの言葉のピースが上手くはまって一枚絵になったのが歌詞だ。

 

世の中の大半の人が歌詞によって感動し、時には涙を流す。

それほど言葉には強い影響力がある。

 

ボーカルがいるバンド。まぁ音楽としたら、周りのギターやら楽器陣は引き立て役に過ぎない。

だからこそ最善の注意を払い、かっこよくするんだよ。

映画のワンシーンをより感動的に、迫力的にするために存在するBGMや効果音。

まさに映画のワンシーンが歌詞、歌メロである。

 

歌詞が存在する音楽を聴いている以上責任もって聴かなきゃだめだよ。

 

歌詞を否定するということは、好きでコピーしたであろうそのバンドの作詞家の人の人生を。その人生の体言化を否定するということだ。

どれだけ苦しんで、どれだけ考え抜いて書いていると思ってるの。

 

あの秋元康でさえ歌詞を考えるためにホテルに一週間は缶詰めになるというのに。

 

全部を聴かなきゃ意味がないってこと。

 

全パートが綺麗にまとまって訴えかけてくるのが音楽であり、アートなのに。

歌詞が一番重要といっているわけじゃなくて、全部重要ってこと。

 

楽器隊の何か一つでもかけたら聴くに堪えないくせに歌詞はなくてもいいだなんて、本当に音楽が好きなのかと疑ってしまう。

音楽を聴いているのではなく、まさに聞いているとはこのことだと思う。

 

あなたが好きなそのリフも、ギターソロも歌詞と共存するもの。

 

歌詞なんでどうでもいい。

 

そう思うなら、歌詞の無い、インストや民謡、オーケストラ以外を聴くべきじゃない。

 

 

自分が作詞をするから強く思うんだろうけど、音楽が好きなら、流れてくるすべての音を尊重して楽しむべきだと思います。